ブラジル発 セクシー&キュートな洋服屋の生活裏話 (格安ネットショップもオープン ダンスファッション サルサ ナイトクラブに!) -3ページ目

紅白歌合戦


年末にダイレクトTVを入れたからには「紅白」がみれるかも?と思っていたわたし。


なんで「?」なのかというと、ブラジルは日本より現在の夏時間で11時間遅れている。ということは、日本時間の「紅白」は、ブラジルでは朝からテレビの前に座らないといけない。お店は31日も普通に営業だからほとんど無理に近い。


ところが、後から番組ガイドを見ると、海外向けNHK衛星では、日本時間の生放送の後、12時間後に再放送してくれた♪


番組ガイドに「NOUHAKUUTAGASSEN」と書いてあったのはちょっと腑に落ちなかったが(笑)


日本に住んでいた頃は、物心がつくといつも裏番組ばっかり見てたし、裏番組がつまらないと、紅白どころかテレビも見なかったから、こうやってワクワク紅白が始まるのと同時にテレビの前に座るというのはかれこれ何十年かぶり。後日の視聴率などから分かるように、今回はラッキーなことになかなか面白みのある進行ぶりで飽きさせなかったように思う。


何よりも、うれしかったのはネットではよく名前やギャグを目にしていた「生ヒロシ」が見れたことだった。多分HGも出てたみたいだったから「ふぉーーーー」もやったと思うけど、丁度ブラジルが12時を回った頃に外の爆竹の音がすごくって、犬達が恐がって騒ぐためなだめるのと新年の挨拶に庭の方へ出て行って、その隙に終わってしまっていたようだ(残念!)


あと、鮮烈に目に焼きついたのは「ゴリエ?」初めて見たけど、なかなか踊りも上手で華やかでした。


4年くらい前、サンフランシスコで日曜日には必ず「ヘイヘイヘイ」を見ていたのだが(今もやってるのかな?)当時はみんなあまりに歌が下手で、間違ってもアメリカ人やうちの人なんかには恥ずかしくって見せれなかったけど、今の若い人達は本当に歌が上手になったんだなぁと感慨深く見ていたが。。。何かが変。。。


今となっては目がすっかり外国人になっていて、変な所はなんだ???と間違い探し?!

で、気付いたのが女性人の「ドレス」。。。


一見華やかでいかにも高そうなドレスだけど、どうも、なんか「ダブついてる」印象。。。失礼だけど、子供の貸し衣装を彷彿させる方もチラホラ。。。


最近の日本では海外からたくさんのブランドものが入って来てるけど、やっぱり基本は国産かアジア諸国からの輸入で、ポルトガルの植民地で洋服の型紙が立体的に作られているブラジルの洋服とは基本が違う。どうりで、中国製のパーティードレスが一目でそう分かる訳だ。。。


日本人は一番日本人の体系を知っている日本製が一番しっくりすると思っている方は大間違い。もともと洋服自体が輸入されて来たものなのだ。ただ、大量生産に向いてるのが平面の型紙で製作する方法というだけではないかと勘ぐるわたしだった。


何が違うかというと、肩ひものないドレスなどは、きちんと体に合っていれば胸がなくってもずり落ちない。その分、胸からウエストまでの部分はコルセットのように「きゅーーーーーー」っと絞めつけられているけれど、これは平面裁断では作り出せない技。


日本は着物の影響からか、どうも肩部分と袖ぐりが大きく、そのため上半身がすっきりしない印象。これが子供服になると間違ってもブラジルでは売れないダサイデザインとなる。。。


こんなわたしの目に「ぱっ」っと美しくセクシーに飛び込んで来た方がいた。



石川 さゆりさん



やはり、日本人は着物が一番セクシーに見えるのか???それにしても、彼女は歌も良いけど表情が外人受けしそうな感じでした。


遅れ馳せながら、皆様、明けましておめでとうございます。
今年も忘れた頃に?更新して行きますのでよろしくおねがいします(笑)

ダイレクトTV


ブラジルでは、有料のケーブルテレビや衛星放送を受信するとNHKの海外向け衛星放送が受信できる。こういうこともあって、日系ブラジル人家庭では未だに「紅白歌合戦」は一年を締めくくる大切な番組として多分みんなで見ている。。。と思う(推定)


アメリカのサンフランシスコに住んでいた時には、土日の夜7時から12時までアジア系放送枠を日本が買いとっているらしくって、テレビさえあれば無料でみることができた。で、番組はいろんな放送局からのチョイスだったから、NHK大河ドラマからフジのお笑いまで日本では滅多にテレビを見なかったわたしでも、この時間帯しかないと思うとついついテレビに釘漬けになっていたものだ。


そして、ブラジルに来て、本当はそうそうにNHKを見れる環境を作りたかったけれど、そんな余裕はなく、ネットもあったからず~っと延び延びになっていた。しかも、初期設置費用が高いのも踏み切れない理由だった。


ところが、最近「ダイレクトTV」がキャンペーンを行っていて、「設置費用無料」「ワンランクアップのプランをワンランク下の価格で試せる」ということで、ある日の昼下がり、うちの人がはりきって契約を済ませて来た。


もう一つ、うちの人が嬉々として契約した理由にアメリカから持ち込んだテレビの設定を変更せずにチャンネルが見れるということにあった。実は、ブラジルではアメリカや日本と違うカラーの信号を送っているらしく、そのままでは白黒でしか見る事ができない。そして、我が家の結構デカイTVの設定変更の見積りはこっちでテレビ買った方がいいじゃんという値段だったのだ(爆)


さて、晴れてほぼ4年ぶりくらいに見る日本の放送。。。



あれ??? なんか変???



まず、これはNHK独特なのか???果たして日本中で主流の喋り方なのか???話の途中に妙に長い「間」がある。。。こんなの以前はなかった。。。言葉とは進化するというけれど、まさにこれを感じるわたしがここに。。。


なんか、相手の出方を伺うような喋り方。


「もっと自信を持ってハキハキと話しなさい!」


と、わたしの世代の国語の先生だったらおっしゃったでしょう(笑)


そして、またまた日本語英語が増えてる。なんじゃそりゃーーーーー???使ってる本人わかってんの???と思うわたし。。。


この日本語英語って外人泣かせらしい。あるアメリカ人は「ミルク」と聞いて「わぁ、日本ではミルクっていうの?英語に似てるね♪」といったとかいわないとか(笑)


あ。。。話がそれてしまいました。。。


そして。。。話し方以外にもなんか変。。。。よくよく聞き入ると。。。



マイクの性能が抜群に上がってるぅぅぅ!



アナウンサーの鼻息とか口を開く瞬間の舌打ちとかが妙に耳につく。。。これは、わたしみたいな浦島太郎でないときっと気付かない部分。テクノロジーはあらゆるところに普及してるんだなぁとつくづく感心するわたし。


それにしても、見れる日本語放送はNHK衛星だけ。しかも、海外向けはいっしょくたにまとめられてる訳だから、日本から12時間遅れた時差を持つブラジルにはなんかしっくり来ない時間帯にドラマとかある。。。いや、わたしのテレビを見れる時間が限られてるからそう感じるのか???

で、最近どうしてもテレビをつけるとやってるのでついつい見てしまう「趣味の園芸」に見入るわたしだったりする。。。これは、多分日本に住んでたら絶対見ない番組だから、強制的?に知識として加えるのにはいいかも的で始まる時にはうんざりだけど、始まってしまうと「なるほどなぁ」と頷くわたしです。


早く、この敷地だけは広い我が家で「趣味の園芸」で得た知識を生かせるような優雅な生活ができるようになりたいものです。。。

スーパー セクシー ローライズ ジーンズ

最近、うちのネットショップでも問合せの多い「ブラジリアン ローライズ ジーンズ」について少し書いてみようと思います。


日本ではかなり前にファッションリーダーのアユが着用してみんなの注目を浴びましたが、このローライズはブラジルが発祥だと言われています。


前にも書きましたが、ブラジル人は「尻フェチ」率が高いため、女性としてはどれくらいお尻がカッコ良く見えるかというのはお洒落の重要なポイント☆


ファッション雑誌の中にもモデルのお尻比較「誰の尻?」とかいう特集もあったりします(笑)


という訳で、随分昔に股上の浅いジーンズの方がお尻がカッコ良く見えることに当然気づき、当初は若者のみの利用だったのが、今ではその頃の若者がおばさんになっているので、おばさんでもローライズ着用する人は意外に多かったりします。


ブラジルを初めて訪問したのは、寒い時期だったので夜なんかはわたしにとっては長袖が必需品でしたが、ブラジル人女性達は体温が高いからか、お洒落の為には我慢できるのか、ローライズでお腹は丸見えで他人事ながらお腹冷やさないのか心配したものです。


まぁ、ブラジルでローライズでないジーンズを探すこと事態がほとんど不可能ですが、最近わたしが注目しているのはローライズも半端でないスーパーローライズ!股上約10cm!これぞ、究極のローライズではなかろうかと思っています。そして、きっと来年の春辺りから、セクシーローライズをまとった女性を見掛けられるようになる日本人男性は目のやり場をどこにするか準備が必要かも?!

ローライズジーンズ

ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 最終回


次の日の午後にゴイアニアの友人が一人飛行機で合流した。


彼の父親は大きな牧場を経営していて、みんなは我らの事を「大金持ち」と言っていたが、わたしにはそうは見えなかった。


というのも、一度彼の父親の牧場に遊びに行ったのだけれど、確かにたくさんの牛を持っているかもしれないし、カッコをつけて馬を乗り回していたけれど、どうもなんだか「セコサ」を感じた。


数回、いきつけの近所のバーで会ったことがあるが、なにせ会計が細かいのだ。先に帰る時には、きっちり自分の飲んだ分だけ払っていた。時には少なくも感じた。


その癖、自分の牧場でパーティを開いては自分の富裕ぶりをみせびらかしたい様なそんな感じを受けた。


そして、わたしは合流して来た息子が生理的に受けつけないタイプだった。彼は、親に出資してもらって建築材料の販売店を経営していたけれど、いわゆる親掛かりな人生を送っているのが数回会っただけで見て取れた。彼には、美人な婚約者がいるにもかかわらず、うちの人の弟と暇さえあれば女漁りに出掛けていた。


そして、フォタレザにも女遊びに来たことが感じられて嫌気がさした。実際、その日のうちに弟と二人で海岸近くに住む10代も前半くらいのまだまだ子供にしか見えないモレーナ(黒人と白人のミックス)を数人従えてビーチにあるバーで飲んでいた。


彼女達は、家が貧しく仕事もないから暇さえあればビキニで海岸をうろついて観光客に買ってもらう売春婦なのだ。そんなことを説明されなくてもすぐにそうだと理解できた。テーブルを囲んでも話をする訳でもなくただ座っているだけ。そんな幼い少女らにベタベタしている二人の男を蔑む眼差しで見つめたけれど、彼らにはそんなわたしの表情も全然理解できないでわたしに冗談を言ったりしてきた。


そういうバカなやつらは相手にせず、久々の海で子供のようにシュノーケルンに励むうちの人とブラジルの海を楽しむように心掛けた。


モホブランコ周辺には国が貧しい人達のために無償で建てた同じ形のみすぼらしい家がたくさん並んでいて、この辺りの人口のほとんどがそこに住んでいるのではないかと思われるくらいだった。そして、観光化が進んでいない海岸周辺にはたいしたお店もなければもちろん工場もない。男の人にいったい仕事が存在するのかが不思議でならなかった。


数日経って、食料品が不足してきたというのでビーチに一番近い小さな町へうちの人と弟、わたし、その友人で繰り出すことになった。スーパーで必要な物を物色しつつ、珍しいお菓子があったからそれもまとめてわたしが払った。


その時に、しみじみと思ったのだけれど、わたしの日本での人生において、大の大人の男が女性に支払いを全てさせるのは、日本では恥ずかしいことだという常識があるけれど、ブラジル人は気にしない。お金がある人が払えばいいと思っている。わたしの嫌いなこの友人も金持ち風を吹かせる癖に、一切お金を出す気はないのだ。だいたい、お義父さんの海の家にただで宿泊させてもらっているのだから、多少の心遣いをするべきなのではないかと思うわたしの方がここでは変わった考え方の持ち主なのだった。


そして、食料をのせた車で海の家に帰る途中、その友人はわたしの買ったお菓子が食べたいとまで言い出す、ずーずーしさに呆れてしまった。


そんな居心地がいいとはいえない海の家を10日ほどで後にしてわたし達はまた、同じメンバーで車でゴイアニアへと向かったのだった。


帰りは意外にスムーズで、車のすし詰めにも慣れてしまったのか車内ではほとんど眠っていたわたしは、気が付くとゴイアニアへと帰って来ることができたのだった。


ほんの数日間のモホブランコ周辺で見たものは、ブラジルの真実の姿なのだとしみじみと感じた。ゴイアニアはまだいい方なのだ。働く気さえあれば仕事だってみつかる。モホブランコ周辺には仕事自体が存在していなかった。だから、今も尚、あの周辺からゴイアニアへ出稼ぎにやってくる若者も多い。


毎日海岸をうろつき、観光客に買ってもらうことを覚えた少女達はきっと10代のうちに父親の分からない赤ちゃんをポロポロ産むことになるのだろう。そして、貧困は繰り返されるのだ。ブラジルには、こういう少女達がたくさん存在する。この国にはいったい何が必要なのか?教育の徹底?性教育?経済政策?あまりに混沌としていて何がこの国を救ってくれるのか考えると頭が痛くなる。それでも、何かできるはずだと諦めたくはない。。。

ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 第8話

お婆ちゃんの家で小1時間ほど過ごした後、近くに点在するというお義父さんの親族達を尋ねることになった。


最初に訪問したのはもともとはお爺さんが所有していた牧場を次いでそこに住んでいる家族達の家だった。前回書いた様にお爺さんにはたくさんの子供がいたから、お爺さんがなくなった後は牧場は兄弟達に分配されたということだった。


ちなみに、お義父さんは長男だったのだが貧乏な牧場生活が嫌で家を飛び出してゴイアニアに出て来たという経緯があったので、遺産分配の時には辞退したという事だった。というのも、分割された牧場に住む数軒の親族達を尋ねても、誰も豊かとはいえない暮らしぶりだったから、ゴイアニアで自力で学校を出て、取り敢えず測量技師として国の機関で仕事をしていた義父の暮らしは、彼らのそれに比べると断然ましだといえた。


わたしの知っている中では、彼らの生活は「牧場管理人」レベルのものだったのだ。ただ、生活するのに精一杯でムダなものは一切存在していなかった。お義父さんのように知らない土地に一人で出ていく勇気のある人がこの田舎町にどれくらいいるのかは分からなかったが、この町に生まれてこの生活しか知らない人達は、自分達の貧困は分かっていても、どうすることもできないんだろう。ただ、自分達の土地で生活するには十分とは思えない牛を飼育して売る。その繰り返しだ。間違っても余分な収入はないから牛を増やすこともできなければ、そんな夢も思い描かない。そうやって、ただ年を取っていくのではないかと思えた。


彼らには、突然やって来た、アメリカ帰りの親族と貧しくは見えない外国人が訪問して来てもどう対応していいのか分からない。自分達には夢のまた夢である自家用車でやってきた親族に、笑顔で迎え入れることができるほど悟りを開けるわけがない。ただ、子供達は元気だったのが救いだった。


その後、違う小さな町に住む親族宅をいくつか訪問した。


ある家族は、夫婦に娘3人という女性ばっかりの所帯で、「ゴイヤバ(グァバ)」を加工して販売していた。家の裏に行くと大きな鍋でグァバをぐつぐつと煮ている所だった。火種はもちろん薪である。ただでさえ暑いフォタレザの昼下がりに、大汗を掻いて顔を真っ赤にしながらグァバが焦げないようにずっと大鍋の横について鍋をかき混ぜる作業。いったい何時間そうやっているのだろうか。そして、その横では水分を飛ばして濃縮したいってみると「グァバ羊羹」の様な物をせっせと棒状に整えて砂糖をまぶしてカットしてビニールに巻くという作業を小学生くらいの女の子が二人でやっていた。毎日毎日同じ作業を繰り返しても、「ゴイヤバ」のお菓子はありふれていて、とてもいい値がつくものではないことは、ブラジルを訪問したばかりのわたしにでも分かっていた。そこでも、家族みんな戸惑いの表情だったが、瓶詰めのゴイヤバを数個購入すると笑顔でサヨナラを言ってくれたものだ。


唯一ましな生活をしている家族がいて、幼い頃にうちの人達と遊んだ記憶のある女性は大歓待でわたし達を家に招き入れた。生活レベルが上がるほどに人間には心の余裕が出て来るものだとしみじみと思った。


つづく

ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 第7話

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(写真はカジュ)

次の日の朝、背中の痛みで目が覚めた。。。


たった20分くらいの日焼け止めなしでのモホブランコツアーでここまで火傷状態になるかというくらい真っ赤に腫れあがっているわたしの背中は、キャミソールのヒモがあたるだけで激痛が走っていた。


それは、ブラジルの赤道に近い辺りの日差しが半端なものでない事を物語っていた。そして、白人のような白い肌をしていないブラジル人だとサンオイルをテカテカに塗って1時間くらい平気で日向に寝転がって日焼けを楽しんでいるのだから、それもすごい。


彼の家族は、わたしが神経質なくらい日焼け止めを塗っていたにもかかわらずこういう状態になっている事にびっくりしていた。


その日はとてもビーチに出れないと思っていたら、義父さんの家族に車で会いに行く事になっていた。車は1台しかないからまた、彼と弟、義父とその彼女とわたしでのドライブだ。


来る時、フォタレザに入った頃には周りは真っ暗で景色なんか全然分からなかったので、この日はゴイアニアとは違う海岸の近い風景を楽しみながらドライブできた。フォタレザの辺りは「CAJUカジュ」という種部分が「カシューナッツ」になるフルーツの産地だったのでところどころにカジュが実っていた。また、巨大なヤシのような形の木が野生でなく植樹されたようにたくさん茂っていて、それにしては長い間放置されているような感じがしたから何の木なのか尋ねると


「昔はレコード盤の材料として輸出されていた木だよ」


という答えが帰って来てびっくりした。わたしはレコードが木からできているとは知らなかったのだ。なんだか、そんな時代に取り残された木々達を眺めていると、このフォタレザ近くの田舎町も時代に取り残されたまま忘れられた存在のように感じられた。。。


2時間ほど乾燥した風景を眺めてドライブをして、義父の母が40才くらいの孫である女性と暮らしているという小さな佇まいに到着した。


まずは、簡単に挨拶を済ませて少し話しをした。というか、わたしは当時ポルトガル語が全然分からなかったから、雰囲気だけを楽しんだ。


お婆ちゃんはお爺ちゃんに先立たれた後、牧場からこの小さな町に移って来たようだった。オランダ系移民の子孫で小柄で白髪を肩より下まで伸ばして後ろで束ねていた。足が弱っているらしく動作は緩やかだけれど爪にはピンクのマニキュアが塗ってあり、お洒落心は忘れていないようだった。けれど、その指はどれくらい働いたかを誇示するかのように大きくてごつごつしてて、右手の親指は変形していた。日本人にしては大きな手のわたしだったが、お婆ちゃんの手と並べるとなんとも貧弱に見えて苦労知らずのわたし手を見ながら「きれいな手だね」というお婆ちゃんに対して少し恥ずかしくなった。。。とっても人懐っこく、わたしの事を気に入って、言葉が分からないのに、ソファで隣に座りずっとわたしの手を握っていた。


わたしが片言のポルトガル語で


「おばあちゃん、何才なの?」


と聞くと、大笑いしながら


「もう、忘れるくらい年をとっちゃったわ」


といってホントに覚えてないようだった(笑)


若い頃、家族で撮ったという大きな写真を持って来て見せてくれると、そこには長身でハンサムなお爺さんの姿があった。


お婆ちゃんに


「子供は何人いるの?」


と尋ねると


「14人。。。かしら?」


わたしがビックリ仰天していると


「その中でわたしの子供は9人よ」


と言った。お爺ちゃんはかなりの遊び人だったようだ。。。


そんなたわいもない会話を続けている所へお婆ちゃんと一緒に住んでいるという孫の女性が彼氏を伴って帰って来た。


彼女は、まずわたし達に挨拶して彼氏を家の中に招き入れた。すると、その男性は「モリさん」という日系人だった。


モリさんは二世だということだったが、日本へは短期訪問したことがあるだけで、出稼ぎの経験はないといっていた。なので、彼の話す日本語は両親から教わったというちょっと古めかしい表現が多かった。彼自身も当然だけれど、ポルトガル語の方が楽だと言っていた。


モリさんはブラジルで生まれ育ったわけだから、流暢なポルトガル語を話すけれど、ポルトガル語の中にも両親から躾られたのか、日本人的な気配りの表現が所所にうかがわれて「あれっ?」と思った。


ブラジルで先においとまする時に


「話の途中で大変申し訳ないけれど。。。」


と、自分はが話し掛けられている訳でもないのに謝って帰るブラジル人なんか見た事がなかったわたしには、かなり新鮮に感じた。


つづく

ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 第6話

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ブラジル独特のマイクロちっちゃいビキニに身を包み、海になんか浸かるのは10年ぶりくらいのわたしは、恐る恐る波打ち際に近寄って行った。まずは、変なものが浮いたりしていないか確認しておきたかった。


モホブランコの海水は透明よりも透明に透き通っていて、日本の海岸のように海草が打ち寄せてもいなかった。砂浜も砂の粒子が小さく、歩くと「キュッ キュッ」と音がするのが小気味良かった。


そっと手を海水に浸すとヒンヤリと冷たかったが、それ以上に日差しは肌を刺すように強かったから心地よい冷たさに感じることができた。


彼は既に肩くらいの深さのところに行ってしまい早く来いと言っている。わたしもそれに続いて一気に全身を海水に浸した。周囲には子供達が浮き輪で「きゃーきゃー」いいながらぷかぷか浮いていた。


わたしも足が届くか届かないくらいの所まで行って、子供達に混じって波遊びを始めた。日本の海ではありえない大波が定期的にやってくるから、それを頭からかぶらないように波に合わせてジャンプするという単調な動作がなかなか面白い。


とはいえ、全身運動で波遊びもそう長くは続かず、まだ海の中に浸っていたいという彼を残して先にビーチへ上がることにした。


波遊びがたたって、少しヨロヨロしながら浅瀬に辿り付き、もう一歩で砂浜と言う時にいきなりそれは起こった。


引き潮に飲まれてしまったのだ!


人間は経験の積み重ねで力の入れ具合を調節するようになる生き物だ。例えば、卵を割るのに満身の力を込めると卵はぐっちゃりと壊れてしまうだろう。ケーキにフォークを突き刺す力加減はステーキに突き刺すそれとは当然違う。経験上とっさに力具合を加減できるようになっているのだ。

そして、その経験が日本に打ち寄せては引くさざなみしか知らなかったわたしには自然にゆったりとした足の運びをもたらしてしまった。。。


しっかり踏ん張っていなかったわたしの足はブラジルの力強い引き潮に一気に掬われてしまった。

あまりに一瞬のことでなにがなんだか分からないままに、浅瀬ででんぐり返りを2回転ほどして、体がめちゃくちゃになりそうなのを


「マズイ。。。ホントに大変な怪我をするかも?!」


とグルグル波にもてあそばれながら全身の力を振り絞ってその波から逃れた。


そして、次の引き潮が来る前に急いで砂浜に上がったわたしの髪はぐちゃぐちゃで、両耳に水が入って「グワングワン」といっている。取り敢えず、マイクロちっちゃい水着がはだけてなかったのだけは幸運だったかも(笑)


実際波に飲まれたのはほんの数秒だったけれど、わたしにはとっても長い時間のように感じた。けれど、実際はそれが一瞬だったという事を証明しているかのように、誰もわたしには気を止めていなかった。


モホブランコのビーチは観光化はあんまり進んでいなくても、海の家のような所が数軒あって、飲み物や簡単な料理をサーブしてくれるカルソンもいた。海に出ない彼の姉が赤ちゃんと一緒に場所をキープしてくれていたので、疲れると休憩に戻り、気が向くと海に出るのを繰り返しつつビーチでの初日を楽しんだ。


つづく

ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 第5話

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目を覚ますと、ゴイアニアとはまた違った爽やかな空気を感じた。


あいにくうす曇の空模様だったが、散歩するには丁度良く、彼はまだ足を引きずっていたけれど、昨日よりも足の腫れは多少引いていてほっとした。


義父の「海の家」から海岸までは1キロくらいの距離があるらしかったが、まだ涼やかな朝だったので海岸を少し散歩しようということになり、義姉の旦那さんとわたしと彼で海岸まで車で行くことになった。


この辺の海岸は「Morro Branco」と呼ばれていて、自然が作り上げた小さな峡谷が白いことから「白い山」という呼び名がついており、まだまだ観光化されてはいなかったが、小さなホテルが数軒あったり、露天が出ていたりして観光客もそれなりにいた。


観光客達はいくらかのお金を払ってMorro Branco」ツアーに出掛けていたので、わたし達もそれに続いた。


ツアーは渓谷の上の方から始まって、少しずつ下へ下へと下って行くというもので、ほんの30分ほどで出口に出たが、目の前にはブラジルの真っ青な空と海、真っ白な砂浜が大きく広がっていた。何よりもまだ観光化の進んでいない海岸だから人はまばらで、その美しさをより誇示していた。


海岸線を散歩しながら車を停めた辺りに到着した頃には朝曇りはすっかり吹き飛んで雲一つない真っ青な空が広がっていた。


散歩している間は回りの景色に見とれていて忘れていたが、この強い日差しの中で背中を露にした洋服で日焼け止めクリームを塗っていないことに気づいた。以前、日本の海岸で焼けど状態になったことがあるからそれ以来、海でもプールも完璧に日焼け止めを用意するわたしだったけれど、雲っていたことからつい油断してしまったのだ。


既に肩は赤くなってヒリヒリしていたが、日差しが出てからほんの20分くらいだったからなんとか大丈夫だろうと急いで家に戻ってビーチに出る準備をして出直すことにした。


そして、家に戻るとなんだか騒ぎが起こっていた。


どうやら「トイレ」が詰まったようだった。


全くブラジルの工事はいい加減そうだなぁと思っていると、義父がうちの人に何か尋ねていて、わたしの名前が出たのを聞きつけて直感で義父がわたしを疑っている事を察知した。


前にも書いたけれど、ブラジルのトイレは配管が細いのでトイレットペーパーを流せない。で、父はトイレットペーパーを流す習慣のある外人のわたしを疑っているようだった。モチロン、わたしは流していない。。。心の中で


「あんた達のうん○がデカ過ぎるから詰まったのよ!フン!」




と思いつつ、小声でペーパーを流してないか聞いてくる彼にはっきりと


「ノー!」



と言い切るわたしだった。


そして、海岸へ出掛ける途中でもよおして来たわたしは、止む無く草むらで用を足す羽目になったのであった。。。観光化されていないと、こういう所に不便が出てきてしまう。。。


そして、数歩離れた所に人間様のブツが既に横たわっていた。。。


なんで人間様のものと分かったかというと、ブツの横にトイレットペーパーが落ちていたからだつた。。。


つづく

ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 第4話


早朝にはどうしたものかと思うほどに腫れ上がったわたしの顔だったけれど、冷たいミルクがよかったのか、午後には他人が見てもビックリ仰天するほどではなくなった。その代わり、彼の足首はパンパンに腫れ上がり、歩くのもやっととなっていた。


弟は運転したくなかったのか終始不機嫌で車内の空気は重々としていた。


二日目の夜にはフォタレザに到着できるように、早朝明ける前にゴイアニアを出たけれど、フォタレザに入った時には夜の10時を回っていた。ただでさえ標識のないブラジルで真っ暗な道だから何度も訪問している父もすっかりお手上げ状態になっていた。


誰かに聞こうにもほとんど人通りがなく、同じような道をぐるぐる回りながらどうにかこうにか義父の「海の家」に到着した時は深夜の0時を回っていた。


真っ暗な平屋の家にわたし達が到着するとぱっと電気が灯った。


誰だろうと思っていると、中からゴイアニアでわたし達を送り出した彼の姉家族がそこにいた。


彼らは飛行機で来ていたのだ。


後から聞いた話によると、彼と弟がチケット代をプレゼントしたのだとか。そして、ほとほと疲れきったわたし達に、姉は


「車でなんてほんとにご苦労様」



みたいな事をいった。そして、この瞬間にやっぱりブラジル人にとっても5千キロものドライブは普通でないと悟ったわたしだった。。。


車から降り立つと、足もとのサラサラの砂が海岸がすぐ近くにあることを思わせた。


お義父さんが誇らしげに「海の家」を案内してくれたのだが、わたしは車でグルグルグルグルノロノロ運転したせいかかなり気分が悪くなっていたし、彼は誰かにつかまらないとほとんど歩けないほどの足首の痛みで義父の話にほどほどしか付き合えず悪いと思ったが、そのまますぐにベットにもぐりこんだ。


つづく

ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 第3話


みすぼらしいドアが廊下を挟んで左右にずらりと並んでいるが、ドアとドアの間隔を見れば、ホテルの部屋がどれくらい狭いか簡単に想像できた。


今夜はここに2部屋を取って、義父と彼女、彼とわたしと弟で眠ることになった。恐る恐るドアを開くと、4畳半くらいの室内にびっくりするくらい小さなベッド?ベンチ?が3個並んでいた。ベッドから落ちないようにとの配慮か、全てのベッドは壁際にくっついていた。部屋の一番奥に小さな洗面台が一つかろうじてあったが、想像した通りのお粗末な部屋だった。


彼の弟が「うわぁ~ 怪しい部屋~!」と奇声を上げながら中に入っていく。
それに続いてわたしも部屋の中へ一歩踏み入れた瞬間に


  「パチパチパチッ!」



と一瞬目に変な痛みが走った。


変なムシがいるのかもしれないと、持参したアースマットみたいなのをコンセントにはめこんで、どう考えても共同のシャワー室を使う気にもなれないので、部屋にある小さな洗面台で歯を磨いて顔を洗って寝る事にした。


一応、シーツも枕カバーもきれいなものを付けてあるとは思ったが、念のために顔の当たる枕の上に持参のタオルを引いて眠る事にした。次の日の朝も早いのだ。



夢の中で、顔が痒くてしょうがなかった。。。



そして、それは夢ではなかった。。。



朝起きて鏡を見ると、そこには片方の瞼が「お岩さん」のように膨れ上がって、上唇だけ「オバQ」になっているわたしがいた。。。


そして、その腫れ上がった部分は、今にも破裂しそうなくらいパンパンに膨れ上がってジンジンと痛い上にかゆみを伴っていた。。。


そんな顔を誰にも見られたくなくって、頭からタオルをかぶってうつむきながら準備をするわたし。見せてみろという彼にも、あまりに醜い顔を見せたくなくって知らん振りしていた。頑なに下を向くわたしに彼も飽きれて「勝手にしろ」とつき放した。


もう、全てが嫌になって、言葉も出て来ない。車の中でもひたすら沈黙のわたし。


ホテルには朝食はついていなかったから、出発してしばらくしてからコーヒーの飲める所に車を止めて、みんな朝食を取りに行く。


「一緒に行こう」と彼がしつこくわたしの手を引くが、とても知らない人にこんな顔をさらし出したくなくって「行かない!」と車から一歩も出ないわたしに、


「いいから、行くんだ!」


と強引に彼がわたしの手を強く引っ張った瞬間、頭からかけていたタオルがはらりと落ちて、彼が一瞬固まった。。。


「唇だけかと思ってた。。。目も腫れてたの。。。可哀想に。。。」


彼のやさしい言葉に、一瞬涙が出そうになったわたし。


「冷たいミルクを飲むといいよ」


という彼の言葉に従ってお店に向かった。


ところが、朝食を済まして車に戻ろうした時、彼が思いっきり蹴躓いた!


どうやら長時間のドライブでブレーキとアクセルを交互に踏み続けて足首がかなり疲れていたらしく、蹴躓いた拍子に足首をひどくひねってしまい、一瞬立てないくらいに痛かったようだった。


そして、到底運転を続けられる状態ではなかったので、弟と運転を交代した。


すっかりブロークンなカップルとなってしまったわたし達だった。。。


つづく