ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 第7話
(写真はカジュ)
次の日の朝、背中の痛みで目が覚めた。。。
たった20分くらいの日焼け止めなしでのモホブランコツアーでここまで火傷状態になるかというくらい真っ赤に腫れあがっているわたしの背中は、キャミソールのヒモがあたるだけで激痛が走っていた。
それは、ブラジルの赤道に近い辺りの日差しが半端なものでない事を物語っていた。そして、白人のような白い肌をしていないブラジル人だとサンオイルをテカテカに塗って1時間くらい平気で日向に寝転がって日焼けを楽しんでいるのだから、それもすごい。
彼の家族は、わたしが神経質なくらい日焼け止めを塗っていたにもかかわらずこういう状態になっている事にびっくりしていた。
その日はとてもビーチに出れないと思っていたら、義父さんの家族に車で会いに行く事になっていた。車は1台しかないからまた、彼と弟、義父とその彼女とわたしでのドライブだ。
来る時、フォタレザに入った頃には周りは真っ暗で景色なんか全然分からなかったので、この日はゴイアニアとは違う海岸の近い風景を楽しみながらドライブできた。フォタレザの辺りは「CAJUカジュ」という種部分が「カシューナッツ」になるフルーツの産地だったのでところどころにカジュが実っていた。また、巨大なヤシのような形の木が野生でなく植樹されたようにたくさん茂っていて、それにしては長い間放置されているような感じがしたから何の木なのか尋ねると
「昔はレコード盤の材料として輸出されていた木だよ」
という答えが帰って来てびっくりした。わたしはレコードが木からできているとは知らなかったのだ。なんだか、そんな時代に取り残された木々達を眺めていると、このフォタレザ近くの田舎町も時代に取り残されたまま忘れられた存在のように感じられた。。。
2時間ほど乾燥した風景を眺めてドライブをして、義父の母が40才くらいの孫である女性と暮らしているという小さな佇まいに到着した。
まずは、簡単に挨拶を済ませて少し話しをした。というか、わたしは当時ポルトガル語が全然分からなかったから、雰囲気だけを楽しんだ。
お婆ちゃんはお爺ちゃんに先立たれた後、牧場からこの小さな町に移って来たようだった。オランダ系移民の子孫で小柄で白髪を肩より下まで伸ばして後ろで束ねていた。足が弱っているらしく動作は緩やかだけれど爪にはピンクのマニキュアが塗ってあり、お洒落心は忘れていないようだった。けれど、その指はどれくらい働いたかを誇示するかのように大きくてごつごつしてて、右手の親指は変形していた。日本人にしては大きな手のわたしだったが、お婆ちゃんの手と並べるとなんとも貧弱に見えて苦労知らずのわたし手を見ながら「きれいな手だね」というお婆ちゃんに対して少し恥ずかしくなった。。。とっても人懐っこく、わたしの事を気に入って、言葉が分からないのに、ソファで隣に座りずっとわたしの手を握っていた。
わたしが片言のポルトガル語で
「おばあちゃん、何才なの?」
と聞くと、大笑いしながら
「もう、忘れるくらい年をとっちゃったわ」
といってホントに覚えてないようだった(笑)
若い頃、家族で撮ったという大きな写真を持って来て見せてくれると、そこには長身でハンサムなお爺さんの姿があった。
お婆ちゃんに
「子供は何人いるの?」
と尋ねると
「14人。。。かしら?」
わたしがビックリ仰天していると
「その中でわたしの子供は9人よ」
と言った。お爺ちゃんはかなりの遊び人だったようだ。。。
そんなたわいもない会話を続けている所へお婆ちゃんと一緒に住んでいるという孫の女性が彼氏を伴って帰って来た。
彼女は、まずわたし達に挨拶して彼氏を家の中に招き入れた。すると、その男性は「モリさん」という日系人だった。
モリさんは二世だということだったが、日本へは短期訪問したことがあるだけで、出稼ぎの経験はないといっていた。なので、彼の話す日本語は両親から教わったというちょっと古めかしい表現が多かった。彼自身も当然だけれど、ポルトガル語の方が楽だと言っていた。
モリさんはブラジルで生まれ育ったわけだから、流暢なポルトガル語を話すけれど、ポルトガル語の中にも両親から躾られたのか、日本人的な気配りの表現が所所にうかがわれて「あれっ?」と思った。
ブラジルで先においとまする時に
「話の途中で大変申し訳ないけれど。。。」
と、自分はが話し掛けられている訳でもないのに謝って帰るブラジル人なんか見た事がなかったわたしには、かなり新鮮に感じた。
つづく