ブラジル発 セクシー&キュートな洋服屋の生活裏話 (格安ネットショップもオープン ダンスファッション サルサ ナイトクラブに!) -15ページ目

お店オープンまで(うちの旦那さん9)

以前は、申請から取得に1年くらいを要していた市民権申請の手続きが、彼が申請した頃にはスピードアップされていて、たった2ヶ月ほどで市民としての宣誓式を迎えることができた。

「宣誓式というからには、ちゃんとスーツにネクタイしないとだめかなぁ?」と考えはしたものの、あまりにもとってつけたような格好になるので、取り敢えず、ドレスシャツにジーンズを合わせて、紺のジャケットをはおってそれなりのカッコをつけてみた。

会場に到着すると、まずは、思った以上にたくさんの人達がいるのに驚いたことと、誰一人として正装してないのにも驚いた。サンフランシスコという場所柄、やはりチャイニーズが多い。欧米系の顔立ちをした者は数えるくらいしかいなかった。

式典参加者は一階に着席。付き添いは二階席に通された。

厳かに式は始まり、お偉方のお言葉の後、新市民代表の挨拶は、日系ブラジル人のハヤシさんという若い女性だった。

彼女の両親、もしくは祖父母、祖祖父母は訳あってブラジルへ移民して、今度はアメリカへと移民する。自分で自分の住む国を決めるというのはどういう気持ちがするものだろうか。いずれにしろ、彼女もブラジル人であるから、もちろん二重国籍ではあるけれど。

これが、通常の日本人であったら、特別な理由がない限りアメリカのグリーンカードは取得しても市民権までには至らないと思う。日本の法律で二重国籍を認めていないからだ。アメリカ人と国際結婚して、そうした知識もなく、市民権を取得してしまったばっかりに、自分の祖国に帰れなくなった人も存在するのだ。

式も終焉を迎え、最後はアメリカの国歌で締めくくりとなる。全員起立して右手を胸に当て歌うように指示された。

そして、彼は、右手ではなく左手を胸に当てていた。
心の中で魂は「ブラジル人」であることを誓っていた。


式が終わると、全員その場で「アメリカパスポート」を申請するように支持される。彼がアメリカ市民権を得たかった本当の理由はこれにあった。

「アメリカのパスポートさえあれば、いつでもアメリカを出入国できる」

もしも、ブラジルで駄目な時の保険のようなものだった。
しかも、日本のパスポートと並び、ビザなしで出入国できる国の数が群を抜いているのがアメリカのパスポートだ。これだけは、お金で買うことはできない代物であった。

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お店オープンまで(うちの旦那さん8)

テロの起こった当日、彼らはキャブ仲間と電話で連絡を取り合って、その日は仕事に出掛けない事に決めた。というよりも、その日、外を出歩く勇気のある者はいなかった。

一日中「テロ関係特番」が放送され、一体何者がこのような大それた真似をしでかしたか、あらゆる視点から分析されていた。その中で幾度となく「日本のハワイ襲撃」「特攻隊」が比較の対象に上がっていた。

わたしは、日本人として「もしもこれがイカれた日本人の仕業だったらどうしよう」と真剣に不安に思っていた。日本人の仕業でなくとも、テレビで「日本のハワイ襲撃」や「特攻隊」と今回のテロをごちゃ混ぜにして日本人が襲われる可能性も十分に考えられるアメリカ社会なのだ。

けれど、次の日には焦点は中東に向けられていた。

そうそう休んでいられないと、次の日から彼らは仕事に出掛ける事にしたが、彼は、ガサゴソと洋服たんすを引っくり返して探し出して来たのが、

「アメリカ国旗が前面に大きくプリントされたオールドネイビーのTシャツ」だった。

兄弟揃って、お揃いの国旗のTシャツを来て、

「これさえ着てれば、襲われる心配はない。」

ブラジル人の英語の発音は、時にアラブ系の人達と間違われる。彼らなりの自衛策のようだった。

けれど、心配していた通りの事がおこり始めた。キャブドライバーはアラブ系の移民が多い。客がドライバーがアラブ系と分かり暴行を加えるという事件が毎日のニュースで報道されるようになった。中東の移民の多いブラジル人には、外見がアラブ系の者も多く、危うく刺されそうになったブラジル人も出て来た。

そして、街の中には自衛のための「アメリカ国旗」を掲げた車で溢れるようになった。

事情を知らない外国人から見ると、アメリカには愛国心を持った人がなんとたくさん存在するのかと感心しただろう。しかし、事実は非なりである。

身の危険を感じてそうそう外に出れない状況のアメリカで、サンフランシスコも例外でなく、テロの日以来ぱったりとアメリカ経済は麻痺してしまった。また、ITバブルもちょうどその頃終焉を迎えていた。

彼らの収入は、以前に比べると半分くらいに落ちてしまった。それでも、他のドライバーに比べるとましだったけれど。こうも稼げなくなるとアメリカに未練はないが、もう一つだけやり残していることがあった。

市民権獲得だった。

アメリカではグリーンカード取得後5年が経過すると市民権を申請できる。彼らは揃って、ちょうど5年を迎えようとしていたのだ。しかも、ブラジルは現在二重国籍を認めているから、他の国の市民権を取得して自国民でなくなってしまう日本人と違って、アメリカ国籍とブラジル国籍を併せ持てる。

テロ後間もなく弟より一足早く市民権の申請をした彼は、英語は問題なくしゃべれるものの、アメリカ人となるべく「アメリカの基本知識」を日々クイズ形式で勉強していた。「現在の大統領の名前をフルネームで」「アメリカの国旗の星は何を意味するか」「大統領に立候補するための資格は」等々。

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お店オープンまで(うちの旦那さん7)

知合った当初から既に髪の毛が薄くなり始めていた彼だったが、遺伝だったのかストレスのせいだったのか、2年ほどですっかり涼しい頭になってしまった。

しかも、完全に夜型生活となった彼は仕事中は1分1秒を惜しんでろくに食事もせず、深夜帰って来て大量に食べてそのまま眠るという毎日を送って、体の方もすっかり肥満体。

当初ブラジルに戻るまで、あと半年と決めていたのが、少しでも多くお金を持ち帰るためにもう少し、もう少しと延び延びになっていた。どうにも踏ん切りがつかず、ズルズルと日々が過ぎていたある朝、それは起こった。

2001年9月11日のテロである。

ブラジル人の友人の電話に叩き起こされて。テレビを見た私達は呆然としてしまった。まるで映画のワンシーンのように飛行機がアメリカ、ニューヨークのシンボル「ワールド・トレード・センター」に突撃したかと思うと、ビルはオモチャのように壊れていく。。。

わたしが言葉を失っている横で、彼と弟は顔を見合わせて

「ヒィ~ヤッホー!やっと神の罰が下った!」

と満面の笑顔で踊り出さんばかりに興奮したのだ。

憧れだったアメリカという国が、10数年の生活の中で彼らにとっては許し難い国へと変わっていた。

世界の警察気取りで、世界中を巡回しては自国の利益のために戦争をし掛ける。そして、戦争が始まると、敵国出身の移民もしくは有色人種を中心に派兵する。それがアメリカのやり方だと彼らは悟っていた。

日本人として海外に出掛けて。そうそう人種差別をされた人は少ないと思う。世界的に「日本人=お金持ち」の図ができあがっているからだ。
海外で、「お前はチャイニーズか?コリアンか?ジャパニーズか?」と聞かれ、「ジャパニーズだ。」と答えるとたいてい扱いがよくなるのも事実。

一方、貧しい国出身の有色人種はやはり差別されがちである。アメリカのお土産屋に入って、警備に後を付いて回
られた日本人はそうそういないはず。アメリカのお土産屋では「日本人は盗まないから大丈夫」と大歓迎だけれど、他の有色人種の場合は、取り分け金持ちそうでない限り警備員が後を付いて回る。黒人に至っては100%の確率で警備が目を光らせるのが現実のアメリカ社会なのだ。

同じ移民で構成された「アメリカ合衆国」と「ブラジル」。白人と黒人の比率も同じくらいなのに人種差別に至っては「アメリカ合衆国」の方が後進国といえる。

お店オープンまで(うちの旦那さん6)

アメリカには移民や不法滞在者を受け入れ続けなくてはいけない経済機構が成り立っている。とわたしは感じた。 

商品を作るための材料は、借金のある国々から格安で輸入できる。(果たして、日本の場合はどうだろう???)

製造をする工場には、工場主が移民だと、自国から受け入れた不法滞在者を自国と同じ安い賃金でこき使う。それが不当な扱いとはわかっていても、自国には戻れない、英語もしゃべれない人達には受け入れるしかない現実だし、仕事があって自国にいた時よりもましな日々の生活ができて、富める国アメリカに住めることで文句を言うものはいない。彼らにとっての最大の恐怖は、移民局に見つかって強制送還させられることだからだ。

大工場主と移民局との黒いつながりも容易に想像できる。

アメリカから移民と不法滞在者がいなくなると、今のように安価な商品の生産は不可能になることは間違いない。

一方ブラジルは、資源に富んだ国ではあるけれど、技術がないために完璧な品物を生産することができない。また、人件費が格安なため巨大資本を投資した工場で大量生産した品物よりも手作りの方が安くなるという、産業革命以前の経済機構。まだまだ課題が山積みの国です。

話は戻って、ブラジルに帰る日を半年後と目標立てた彼らは、ブラジルで建設中の家やレストランの諸費用をできるだけ早く送金しなければならず、目まぐるしいスピードで働いた。周りには順調に見えたかもしれないが、送金のプレッシャーと自分達の建設を自分達で現地で仕切れないもどかしさでストレスは日に日に溜まって行った。

ピザのデリバリーは物言わぬ物を運ぶという作業だったが、キャブドライバーは人間を運ぶ仕事。変わり者の集まるサンフランシスコではタクシーを呼び止めて乗らないゲームを楽しむ者や、代金を払わないような客も多く、ストレスは頂点にまで達して来た。

弟はそれでものんびりとした性格だったため、それほどでもなかったが、もともと短気な彼に至っては、常に頭の中が超スピードで駆け回り不眠症に悩まされるようになった。疲れているのに眠れない。

そして、薬に頼るようになった。

通常のドラッグといえば、テンションをハイにするもの。けれど、彼の場合は、常に頭の中がハイテンションになっているために、これをスローにするための薬となる。

薬を飲めば、お金の心配や建設の心配は緩和されるけれどそれと比例して思考も動きも鈍くなる。しかも、かなり強い薬のために身体にいいはずもなかった。心身ともに限界に近づいているのが手に取るように分かった。

当店のネットショップです。http://www.vk-brazil.com/jp

お店オープンまで(うちの旦那さん5)

彼らがキャブドライバーを始めた頃、サンフランシスコは「ドットコマース(サイトの運営で莫大なお金を儲けている人達)」であふれ返っていた。シリコンバレーで働く人達がどんどん増えて、街の家賃はうなぎ上り。夕方ともなると食事に出かける人達で街はこの上なく賑わっていた。

シリコンバレーに出張してくる人、次々と開かれるコンベンションを訪問する人、相変わらずの観光客で、空港~サンフランシスコ送迎のお客は途切れることもなかった。しかも、土地に詳しく親切で英語が堪能な彼らには常連客さえ付いて行った。誰でもなれるキャブドライバーなだけに、ドライバーの質は当然悪いのが常識なのだ。

彼らは、まるでお金の製造機のように、毎夜大金を抱えて帰って来ては、お互い金額を競い合う。

イエローキャブのシステムは、ガソリン満タンのキャブを借りて、就業後はガソリン満タンの車を返却し、使用料$80を支払うというものだった。この$80は、要領の悪い者には、時に自腹だったりするが、彼らにとっては微々たるものだった。

毎日増え続ける世界の基準貨幣「ドル」を眺めながら、

アメリカとはやる気のあるものにはいくらでもお金を稼ぐチャンスを与えてくれる国だと実感していた。

一方、当時のわたしは、美容学校も卒業してどこかで働きたかったのだけれど、わたしが働くことですれ違いになることを恐れた彼に反対されて、たいてい主婦のようなことをしていた。

でも、稼ぎのない生活に不安を覚えたわたしは、当時まだ少なかったアメリカからの日本のヤフーオークション参加者となって、特にブランド物のベビー服を販売してお小遣いを稼いで、たまに日本人の友人と食事に出かけたりしていた。

彼は、わたしと知り合うまで、外食もろくにした事がない質素な生活をしていた。ピザ屋には、休みがなかったのだ。

キャブドライバーとなって週に1日は確実に休めるようになり、わたし達は、少しずつ映画に出掛けたり、買い物に出掛けたり、安いお店で外食を楽しむようになった。いつも、彼と弟とわたしの三人というのが少し不満だったけど。。。

ブラジルに帰る準備を着々と始めたわたし達は、ブラジルで使うための日用雑貨をアウトレットで大量に買い物していた。

アメリカの雑貨ほど品質がよくバカ安なものはないと思う。

いくら大量生産とはいえ、日本人には考えられない値段の「MADE IN U.S.A」が存在する。その秘密と移民の受け入れには深い関係があることに気づいてる人は少ないと思う。


アメリカで安い雑貨を買いたい人達は、通常のお店に行ってはいけません。

マーシャル http://www.marshallsonline.com/index.asp

ロス http://www.rossstores.com/

は、どこにでもあるアウトレットのお店ですので、場所をチェックしてのぞいてみては?掘り出し物がたくさんありますよ~。

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お店オープンまで(うちの旦那さん4)

彼は、幼い頃を困窮の中で育ち、子供の頃から野菜を売ったり掃除をしたりできる限りの仕事をしつつ家計を助けていた。当時は、18歳で徴兵制度があったため、軍で働く一方、知恵の働く彼はいろいろとアルバイトをしてはお金を稼ぎ、19才の時にはおんぼろだったが夢のマイカーも手に入れた。

子供の頃から音楽と映画が大好きで、すばらしい音楽や映画を作るアメリカに憧れていた。


そして、20才の時に、自分の持っている全ての物を売り払って弟と共に、憧れのアメリカへ渡ることを決心した。


もちろん、アメリカは貧乏なブラジル人にはビザを発行してくれるはずもなく、ブラジルから飛行機でメキシコへ入り、メキシコのボーダーを走り抜けてアメリカへとやって来た。

よく、テレビでメキシコとアメリカのボーダーのアメリカ兵による警備の特番とかで、鉄格子の向こうメキシコ側から隙を狙いつつらんらんとした目を光らせてる人達はメキシコ人だけではなく、南アメリカ諸国からアメリカのビザが取れずに集まってきた人達なのです。

つい最近もアメリカのボーダー周辺の砂漠地帯でほとんど白骨化したブラジル人の死体が発見されました。今も尚、命懸けのボーダー越えは続けられています。

南アメリカの貧しい諸国の人達にとって、アメリカとは、命を懸けるのに値する魅力があるのでしょう。

ドルは、自国に持ち帰ると送金すると何倍もの価値に膨れ上がる。どんなに厳しい仕事だろうと、たった一年の我慢で自国の5年分10年分の収入を手に入れることができるのだ。

日本は運良く島国だったから、不法侵入は非常に困難だけど、もしも中国韓国ソ連と地続きだったとしたら、この命懸けの侵入は日本でも繰り広げられたことと思う。

一方、なんとかアメリカに侵入した彼と弟。家族を安心させるためにかけた電話で思いがけない訃報を知らされた。

「今朝、お母さんが亡くなった。」

思いがけない出来事だった。もともと心臓が弱かった母だった。朝方、一緒に寝ていた妹が発見したらしい。苦しんだ形跡もなかったとのこと。

お母さんっ子だった彼は、何日も泣きはらして

「夢を叶えれるようになるまではブラジルには戻らない」

と硬く誓った。

そして、何度も何度も挫折しそうになった時、優しかった母を思い出しては誓いを思い出した。


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お店オープンまで(うちの旦那さん3)

ブラジルに帰る目処が立ってきた頃、彼らは、長年勤めたピザ屋を辞めてイエローキャブの運転手に仕事を変えることを考え始めるようになった。

というのも、たくさんのブラジル人の友人達がピザ屋を辞めてキャブドライバーに転職していた。そして、ピザ屋のデリバリーよりも稼いでいた。

けれど、彼は「石橋を叩いて渡る」タイプ。

たまに叩き過ぎて石橋自体を壊すくらいの慎重さ。

彼らのピザ屋での収入は、他のデリバリーの仲間に真似のできない高額だったため慎重に調べた上で、もしも駄目な時にはピザ屋に戻れるように、当初はランチ時のデリバリーは続けつつ始めることにした。

朝9時にランチデリバリーのためにピザ屋に出勤して、午後3時過ぎに家に戻り、夕方5時にはキャブの順番待ちに出て行く。帰ってくるのは朝方の4時前後となった。

アメリカでは、常にキャブドライバーが不足していて誰でも簡単になれる。

アメリカの運転免許書を持ってキャブ会社の講習を約1週間ほど受講した後、テストに合格すれば、その次の日からキャブドライバーだ。英語なんかしゃべれなくてもOK。

彼らにとってキャブドライバーはお手のモンだった。
長年のピザのデリバリーでサンフランコの道は隅々まで頭に入っていたし、渋滞状況も把握していた。後は、いつ頃どの辺にお客がいるかを毎日の経験で勉強するだけだった。

キャブドライバーを始めて1ヵ月後、ピザのデリバリーよりも稼げることを確信した彼らは、ランチのデリバリーを辞め、ブラジルに帰るまでの残りの日々をアメリカで少しだけ人間らしく生活することに決めた。

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お店オープンまで(うちの旦那さん2)

なかなか稼げる「ピッツァメン」も、そうそう楽な仕事ではなかった。
彼らは、アルバイトの「ピッツァメン」が大多数を占める中で、グリーンカード所持者ということで社員。

朝は、9時に出勤してランチのデリバリーに備え、午後3時くらいから暇になっては、ピザボックスを作ったり、サービスの粉チーズやペッパーを小分けにしたり、夕方ともなると、またもやデリバリーが再開して、帰れるのは夜中の2時以降。

家に着くなり、夜食を食べて床に着いたかと思うとすぐ朝になる。

当時、美容学校に通っていた私は、学校が8時半に始まるため、常に彼が起きる前に家を出ていたから、話ができる時間なんてほとんどなかった。それでも、たまに学校の帰りにピザ屋のあるノースビーチへとチャイナタウンをてくてく歩いて行ったりした。

ピザ屋につくと少し離れたところで彼の姿を探す。たいていいつもデリバリーでいない。

なんで離れた所かというと、イエローキャブでも仕事中に助手席に家族を乗せていてもいいアメリカで、このピザ屋には「仕事中助手席に誰も乗せてはいけない」というルールがあった。当初こんなルールはなかったから、何度もデリバリーにくっついて行ってたのだけれど、新しいマネージャーに変わった時にこのルールはできた。

というのも、新しいマネージャーは前のマネージャーと仲が良かった彼と弟を毛嫌いしていた。このルールも彼に対する嫌がらせだった。

長年勤めていた彼らが無駄遣いせずに着々とブラジルに帰る準備をしていることに対する周りの人達の嫉妬はとてつもなく大きかったようだ。

そんな事情も知っていたから、離れた所で眺めていたのだけれど、デリバリーの仕事はいかにすばやくたくさんデリバリーできるかにかかっている。デリバリーから帰ってくると、車をダブルパーキングしてでもデリバリーの順番待ち表にサインをしてトイレに行く間も惜しみテキパキ動く。

この「テキパキ動く」というのが、欧米人にはとっても難しい。彼と弟はまるでゲームでも楽しむかのように「テキパキテキパキ」行動しているのが、遠くから見てても気持ちよかった。

お店オープンまで(うちの旦那さん1)

(↑照明の操作をするうちの旦那さん)

アメリカには、弟と共に出稼ぎしていて、
サンフランシスコでは彼と弟とわたしの3人で生活していた。

彼らは出稼ぎ10年以上の筋金入りで、弟はたまにホームシックが押さえられなくなると、彼が止めるのも聞かずさっさとブラジルに戻っては半年くらいアメリカに帰って来なかったらしい。

一方、彼には大きな夢があった。

「自分の家を建てること」

「牧場を経営すること」

「ナイトクラブを経営すること」

「レストランを経営すること」


彼は、欲張り屋さんである(あった)。。。


普通のブラジル人の夢は、たいていこの中の一つ。多くて二つ。ところが、たいていのブラジル人出稼ぎ者は憧れの先進諸国で働いただけのお金を浪費してしまい、夢をかなえられる者はほんの一握りに過ぎない。

でも、彼らの場合、二人がかりで稼げるという強みがあった。わたしと彼が知合った頃には、既に夢をかなえるべく、家とレストラン用の土地は購入済。

ゴイアニアに住む姉に建設の段取りを組んでもらい、着々と作業は進んでいた。

ナイトクラブで使用するための音響セットや照明器具のローンも残すところ僅かとなっていた。

そして、念願の牧場も夢に描いていた通りのものを購入できた。

ナイトクラブは、ブラジルに移り住んでから建物を賃貸してやる予定だったらしい。

彼らはラッキーだった。ちょうど、彼らがアメリカに行ったくらいから、アメリカの経済が好転して来て、わたしがアメリカにいた1997年あたりからは、サンフランシスコはITバブルへと突入。

彼らの仕事はサンフランシスコで一番有名なピザ屋のデリバリー。彼らのことをアメリカでは

「ピッツァメン(Pizza Man)」と呼ぶ。

日本でピザのデリバリーといえば、バイクでの配達が普通。でも、ピザ巨大消費国のアメリカでは車で何枚も同時に配達するのです。

それにしても、日本人にとって、なんでピザのデリバリーでお金になるのか不思議ですが、通常のお店は配達したピザの代金の10%を歩合で支払います。でも、アメリカという国には「チップ」というありがたい存在があるんですよね。

しかも、最近は代金の25%が普通になってきました。
で、$20のピザを配達すると$5もチップをくれたりします。

また、ITバブルのサンフランシスコでは、会社のランチやパーティにもピザを注文。すごい枚数のピザをデリバリーしただけで$50くれたり、もともと観光地のサンフランシスコには高級ホテルのお客からの注文も。日本人が考えれないようなチップをくれます。

クリスマスは稼ぎ時で、一日でチップだけで$5000という記録まであったり。。。恐るべし

「ピッツァメン(Pizza Man)」

つづく

ゴイアニアという地方都市

ブラジリアの夜景
http://www.brazil.ne.jp/brazil/brasilia/

恥ずかしながら、ブラジルになんて興味のなかったわたしは、ブラジルの首都は
「サンパウロ」「リオデジャネイロ」だと思ってた。ぷぷぷ。

ブラジルの首都、「ブラジリア」は1960年に遷都された歴史のない新しい都市。

それ以前の首都「リオデジャネイロ」があまりに犯罪が多くなって、誰も開拓しようとしなかった、ブラジル高原の真っ只中の標高1170mの山のてっぺんに人工的に計画されたジェット機型の都市を建設。

1987年にはユネスコの世界遺産にも指定されてます。知ってました~???

ブラジリアに行くと、整然と区画された高級住宅街よろしく、世界各国の大使館が仲良く並んでいます。でも、道しるべのいい加減なブラジルのこと、日本大使館に初めて行く人のほとんどは遠回りする事になるはずです。。。

前回なんか、書類作成に2時間かかると言われて、いざブラジリア観光へ!
で、帰り道に迷うこと1時間。車で同じようなところをぐるぐるぐるぐる(@_@)

さて、肝心のゴイアニアは、つまり、ブラジリアができるのと同時に息を吹き込まれた州都。ほとんどは、ブラジル北部の貧しい町からの移住者だと聞いています。

「ゴイアーノ(ゴイアニア出身者)」=「田舎モン」

これがブラジル人達のゴイアニアの評価。

「ゴイアニアで牧場関連の仕事をしてないヤツは、インディアンだ。」

というジョークもあったりします。

なんにもなかった所に町ができるわけですから、ブラジル高原といえば牧場。
車でほんの少し行っただけで、ぼちぼちと牛や馬が草を食む風景が表れてきます。

ブラジルは、世界一の牛肉輸出国なのです。

ちなみに、我が家もお洋服屋以外に牧場で牛を放牧してます。

けど、全然お金になってな~い!

近所にはいくらでも牧場経営だけで贅沢な暮らしをしてる人が存在してるのに。だいたい、いらぬものにお金かけ過ぎ。。。そのあたりは後ほど、牧場編で。

ブラジルのお洋服が買えるネットショップオープンしました!
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